耳川の川筋 美浜町

愛大神をまつる愛神社 洪水から村を守る
 美浜町の中央部を流れる耳川(みみがわ)は、滋賀県境を源流として、若狭湾に流れ下ります。新庄地区の松屋付近からは、ほぼ直線で海に向かい、川幅も狭いため、以前は大雨になると橋が流されたり、山崩れや氾濫(はんらん)が起きたといいます。それによって昔はたびたび川筋が変わったという話が、流域の各集落で語り伝えられてきました。現在の川筋が定まったのは、江戸初期とされています。
 河口の左岸にある標高52.5mの洪水山(こうずやま)は、昔、新庄の山が洪水によって流されてきたもので、新庄小学校付近の片山(かたやま)が、元あった場所だという言い伝えまであります。確かに河口近くにポツンとある洪水山を見ると、いかにももっともらしい話に思えるのですが、これはどう考えても作り話でしょう。ただ、そういう伝説が生まれるほど、かつての耳川は暴れ川≠ナした。
 佐野の愛(あい)神社は、洪水鎮撫(ちんぶ)のためにまつられました。佐野は耳川中流の川筋に沿った南北に細長い集落で、愛神社はその南端(上流側)にまつられています。地元では、「昔、耳川の氾濫で佐野に大きな被害が出たことから、洪水が起きないようにと集落の一番上手(かみて)に愛神社をまつった。それ以来、村が洪水に遭うことはなくなった」と語り伝えています。
新庄小学校
▲耳川上流の新庄小学校(白い建物)。
 このあたりが「片山」と呼ばれています。

洪水山
▲耳川の河口近くにポツンとある「洪水山」。
 新庄の「片山」から洪水で流されてきたと
 いう伝説があります。

愛神社
▲洪水から村を守ってほしいとの願いをこめ
 て、佐野集落の一番上手にまつられている
 愛神社(愛染宮とも)。

 愛神社の創建年代が分かれば、その洪水の時期を推定できるのですが、拝殿を眺め回したものの、祭神を記した額もなく、手掛かりは見あたりません。ただ拝殿脇の灯籠には「安政五年」と彫られていて、これは幕末のころに寄進されたもの。『福井県神社誌』には、愛神社について「祭神は愛大神、創立年代不詳」とあります。「愛神社」「愛大神」についても調べてみましたが、県内外を問わず、同じ名前の神社、神様を探し出すことはできませんでした。地元では、祭神は「愛染明王(あいぜんみょうおう)」(欲望の浄化、災害除去、 縁結びに霊験があるとされる忿怒(ふんぬ)の形相(ぎょうそう)の守護神)だとする説があり、同神社は「愛染宮(あいぜんぐう)」とも呼ばれています。一方、『三方郡誌』には「久那斗神(くなとのかみ)を祀る」とあり、久那斗神 とは「土地の境・辻などに立ち、悪霊(あくりょう)・災厄(さいやく)の侵入を防ぐ道祖神(どうそじん)」をいいます。いずれにしても、境内の樹木の太さからみて、創建はかなり古いようです。
 愛神社の近くにお住まいの大塩操さんは、おばあさん(明治12年生まれ)から「耳川は、今は佐野集落の東側を流れているが、昔は集落の西側を流れていた」と聞いたそうです。 それは、おばあさんが自ら見たわけではなく、聞き伝えの話とのこと。事実、近年、土地改良で佐野集落西側の水田を掘り起こしたとき、比較的浅いところから幅広い川砂利の層が現れたそうです。かつての耳川の河床は浅く、川幅もかなり広かったようです。
地図 佐野集落の脇を流れる耳川
▲佐野集落の脇を流れる耳川
 佐野の西側に位置する上野集落から興道寺集落にかけては、約2qにわたって河岸段丘とみられる段丘崖(がい)があります。現在の耳川からは数百m離れて、川筋とほぼ平行にあり、段差は大きなところで3〜4mに及んでいます。河岸段丘は、河川が長い年月をかけ川筋を少しずつ変えながら、川底を掘り下げたことによってできたもの。 これもまた、耳川の変遷を物語っています。同時に、それは水害の歴史でもあり、先人の大いなる苦難が偲ばれます。
【参考文献】
『わかさ美浜町誌<美浜の文化>第1巻』(美浜町・平成14年発行)、
『御大典記念 福井県神社誌』(福井県神社庁・平成6年発行)
【取材協力】
大塩操さん(美浜町)ほか地元の皆さまからお話を伺いました。


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