馬居寺〈まごじ〉(真言宗)は、若狭で最も古く619年に聖徳太子が開いたとされる寺です。その縁起によると──
太子が摂政として、愛馬にまたがり諸国を巡る途中、和田の浜で休息をとられた。そのとき馬が姿を消し、突然、南の山からいななきが聞こえ、光明が輝いた。太子は、その光明輝く山を「観音の霊地である」として、本光山〈ほんこうざん〉と称し、党塔を建立。のちに仏師が馬頭観世音菩薩坐像を刻み、安置した。馬頭観音が居られる寺ということから「馬居寺」と呼ばれるようになった、とのことです。
馬居寺は、JR小浜線の若狭和田駅から南に1kmほど谷奥へ入ったところにあります。観音堂(1677年建立)と、本尊馬頭観世音菩薩坐像(国指定重要文化財)が納められている収蔵庫(2002年建立)、庫裏〈くり〉・写経所、石仏群などがひっそりとたたずむ山あいの寺です。往年には荘田20町歩(約114石)が与えられ、本堂のほか阿弥陀堂、経堂、仁王門などがあり、6坊(坊は僧侶の住居、今でいう庫裏)を擁する一大霊場でした。京都の東寺〈とうじ〉(教王〈きょうおう〉護国寺)に残る文書〈もんじょ〉からも、室町時代、この地に多くの僧侶を擁する大寺院があったことを知ることができます。
ところが、戦国期に馬居寺一帯は戦場となり、寺の由来を伝える文書や什物〈じゅうもつ〉を焼失。そして太閤検地では荘田をことごとく召し上げられました。『若州管内社寺由緒記』には、このとき本堂と仁王門・仁王像は小浜の長源寺へ、阿弥陀堂と本尊は高浜の西福寺へ移されたとあります。その仁王像2体は、のちに京都・嵯峨〈さが〉の常寂光寺〈じょうじゃっこうじ〉に移り、「仁王像は丈七尺、若狭小浜の長源寺より移せるものにて運慶の作と伝えらる」(常寂光寺のパンフ)とされ、現存しています。一方、西福寺は江戸後期(1817年)の高浜大火で諸堂とともに本尊阿弥陀仏を焼失。その像は快慶の作であったと伝えられています。
江戸期から明治中期までの約300年間、馬居寺は住職のいない寺(他の寺の住職が兼務)となっていま
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馬居寺の秘仏馬頭観世音菩薩坐像(像高 100.3cm)。24年ごとの午年に本開帳、その
中間の午年に中開帳されます。次の本開 帳は2026年です。
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